古本屋のススメ

最近になって僕は、古本屋に足を運ぶようになった。

今までの僕はなんとなく、古本屋のことを「本が雑に扱われているちょっと汚い本屋」いわば本の墓場のような場所だと思っていた。

 

思っていた、とは言ったが、別に全然そんな店も普通に存在する。

何億年放置されたらこんなに埃を被るんだというような歴史書や、鬼のように蛍光ペンで線の引かれた参考書。

芸術とエロの境目を攻めたような美術書や、知らないおばさん(女優)の写真集。

誰が買うんだよ、、、なんて言いたくなる本がたくさんある。

 

ただここは本当に「本の墓場」とよんでいい場所なのだろうか。

 

手に取った文庫本(¥100)から顔を上げ、本棚に目をやると、その雑多な様相にいつも驚かされる。

まあたしかに大まかなジャンル分けはされてはいるが、本棚の一角には、西洋医学の専門書、漫画ドカベン6巻、経済学系の新書、はらぺこあおむし(絵本)がひとまとめにされているようななんとも混沌とした区画が完成されていた。

 

その時僕が思ったのは、これこそが、この無秩序こそが、古本屋の魅力なのかもしれないということだ。

というのも、僕は「古本屋ではない本屋(以下書店)」に行くとき、大抵は単行本コーナー、文庫本コーナーで長い時間を過ごす。

そして買う本を決めたらファッション誌をパラパラと流し、一通りの「トレンド」を頭に入れたのち、レジで会計を済ませて帰る。

興味のないジャンルの本のコーナーには基本的には行くことはない。

 

一方、古本屋に行った時、まずは店頭に置かれている本棚の左上から順にすべてに目を通す。

そして店内に入ると、色んな時代に書かれた、色んな種類の本たちが「俺を手に取ってくれ」「私をおうちに連れて帰って」と言わんばかりに僕の心をくすぐる。

時代と文化の交差点のような場所だ。

だがもちろん、何の本がどこにあるのかなんて、ここでは分からない。

書店のようなフロアの地図もなければ、書籍の検索機なんて物もない。

ここが無秩序と混沌の渦巻く、宇宙のような空間であることを忘れてはいけないのだ。

 

ただその無秩序は、時として思いもよらない素敵な出会いをもたらしてくれる。

興味のある本がどこにあるか分からないから、僕はすべての本棚に目を通す。

その過程ではものすごい数の本との出会いがある。

その中に、かぐや姫が生まれてきた竹のごとく光って見える本があったりする。

 

一期一会という言葉がある。

古本屋は一期一会を象徴するような場所だということを僕は最近になって知った。

書店では起こり得ない、素敵な出会いだ。

出会いのあるあの空間が僕はとても好きだ。

本との出会いであり、その本を書いた著者との出会いでもある。

 

買いたい本が決まっている時、僕は書店を使う。

逆になんとなく暇を持て余し、徒然なるままに活字の海を漂いたい時、これからもきっと僕は古本屋に足を運ぶ。

少しだけくたびれた本たちが、今日も新しい読み手を待っているから。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

ほそくたなびくけむり

ないものねだり、とでも言おうか。

夏になったら冬が恋しくなり、冬になったら夏が恋しくなったりするものだ。

 

恋しくなる、と表現したが、何も気温のことだけを言っているのではない。

 

日本には四季があり、それぞれの季節に趣がある。

 

皆さんはどんな時に季節を感じるだろうか。

 

例えば夏。

「夏が来たな」と感じるのはどういう時だろうか。

 

青空を敷き詰める入道雲を目にした時だろうか。

けたたましいセミの鳴き声を聞いた時だろうか。

はたまた、溶けかけのアイスキャンディーを口にした時だろうか。

 

季節の到来の感じ方は本当に人それぞれだと思う。

生まれ持った五感を駆使し、季節を感じるのだ。

四季は違った顔を持ち、それぞれに趣がある。

季節がめぐる度に僕は月日の経過を感じ、そして少しだけ切ない気持ちになる。

 

これは数値として可視化されたものではないので、感覚的なものだが、僕は人に比べて、「匂い」というものに敏感かもしれない。

 

季節の到来に関しても、視覚や聴覚よりも「匂い」として心に入ってくることが多いのだ。

そしてその匂いのほとんどに思い出(思い出というよりは記憶?)が詰まっている。

 

 

昨日のことだ。

駅からの帰り道。

路地裏を歩いていると土の濡れた匂いがした。

高校時代、灼熱のグラウンドに水を撒いたとき、同じ匂いがしていたことが不意に思い出される。

もちろん場所は違う。

でも同じ匂いだった。

匂いと記憶は僕にとって切っても切れないものなのかもしれない。

 

僕はお香が好きだ。

最近は寝る前に部屋で焚いている。

お香。我ながら激シブだと思う。

お香は本当に良い。

醤油皿ぐらいの小さなお皿に火を点けたお香をそっと据える。

ほそくたなびくけむりがゆっくりと部屋に充満する。

「ほそくたなびくけむり」とあえて表現したのはそのけむりのやわらかな印象からだ。

「細くたなびく煙」ではなく「ほそくたなびくけむり」である。

匂いに敏感な僕にとって、お香は色んな思い出を呼び覚ましてくれる。

 

金木犀のお香を焚けば、小学校からの帰り道を思い出すし、ヒノキのお香を焚けば、家族で行ったキャンプを思い出す。

ラベンダーのお香を焚けば、夏の北海道旅行を思い出したりもした。

 

そして不思議なことに、お香の香りで思い出す記憶は何故か幸せなものばかりなのだ。

 

お香の香りで嫌な記憶が呼び覚まされた経験は、まだない。

 

いつもそれらの優しさ、温かさに心を包まれ、幸せな気持ちになる。

嫌なことがあり傷付いた時、泣きたくなった時、何もかも投げ出したい時、そんな時にお香は「こんな楽しいこともあったよね」と言わんばかりに部屋に幸せな匂いを振りまく。

 

僕は「匂い」に救われているのかもしれない。

これからも「匂い」に、寄り添っていたい。

幸せな記憶をすぐ思い出せるように。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

春の朝

思えば修学旅行、宿泊研修、そんなイベントの最終日の朝、僕はいつもみんなより早く目が覚め、まだ夢の中にいる友の寝顔を見ながら楽しかった数日間を振り返っていたような気がする。

 

「はあ、今日帰るのか、楽しかったなあ」

 

いつもは教室を支配するようなけたたましいアイツも、成績優秀な学級委員も、まだあだ名のない佐藤くん(仮名)も、まだぐっすりと眠っている。

 

僕は自分の家の布団でないとこんなにぐっすりは眠れない。実に羨ましい。

 

前の日の夜は好きな女の子の話などに花を咲かせていた僕達であったが、気付かぬうちに眠ってしまっていた。

どんなに楽しくても睡魔には勝てない。

この楽しい夜が永遠に続けばいいのに。

そんなことを思ったはずなのに

残念ながら朝は来る。

 

「楽しかったなあ」

 

数日間のハイライトを頭の中で描きながら、誰かに見られたら絶対に気持ち悪がられるような薄ら笑いを僕は浮かべていた。

 

ほんの数日間ではあるが、10代の少年にとって学校以外の場所で過ごす時間は非日常であり、刺激も多い。

 

そして楽しい時間はすぐに過ぎてゆく。

「今日、帰るんだ。」

あの街へ、あの学校へ。

また日常が帰ってくる。

非日常から日常へとまたピントを合わせる作業をしなければならないのだ。

非日常の中に身を置いた数日間は幸せそのものであったが、こんなに日常の憂鬱が色濃く返ってくるのであれば、こんなイベント要らないな、なんて少し投げやりな気持ちにもなった。

 

幸せそうに眠る友の顔を見て、こんなに気持ちよく眠れていたらこんなこと考えずに済んだのにな、なんて思ってみたりもして。

 

「悔しいから朝食の時間まで、僕も寝よう。」

 

馴染みのない匂いのする布団に、枕に、僕は再び身を委ねた。

 

 

 

 

 

春の朝、まだ少し肌寒さを感じる春の朝。

日の出を告げる鳥の声で起きた春の朝のこの時間は、いつもそんなことを思い出してしまう。

今日も、不意に思い出し、今こうして書いている。そろそろ終わろう。

 

よし、もう一度寝よう。

布団はまだ温かい。

しかも嬉しいことに、ここは僕の布団だ。

安心できる匂いがする僕の布団だ。

 

修学旅行の宿の布団でもなければ、宿泊研修のロッジの大部屋でもない。

 

起きた後、日常にピントを合わせ直す必要も、ないのだ。

 

(am5:33 自宅の布団の中にて更新)

 

 

校長先生からの挨拶です

えー、みなさんが静かになるまで860万5682年と11ヶ月、16日と13時間26分22秒掛かりました。

この長い間、私は待ちました。

気の遠くなるような長い時間です。

みなさんが静かになるまで、私はひたすら待ち続けました。

色んなことがありました。

 

無意味な戦争に野は荒れ、自分勝手な開発に海は枯れ、かつての美しい地球の姿は今では見る影もありません。

 

静かになりました。

本当に静かな地球になってしまいました。

みなさんが静かになったというよりは、この地球が静かになってしまいました。

 

人も減りました。

かつては1億人以上いた日本の人口も今では私と、教頭先生の2人です。

 

私は今、誰に話しているのでしょう。

この朝礼台に立ち、今こうやって話すことに、果たして意味があるのでしょうか。

私が、みなさんが静かになるのを待っている間にみなさんは天国へと旅立っていきました。

 

残ったのは私と教頭先生だけです。

 

みなさん、天国はいいところですか?

美しいところですか?

幸せに溢れていますか?

 

 

寂しいです。

私は今、とても寂しいのです。

みなさん、私の気持ちを考えてみてください。

この長い間、私は教頭先生と二人きりです。

二人とも推定860万5700歳前後です。

歳を取りすぎて正確な年齢が分からないので「推定」とさせていただきましたが、推定なんて言葉は縄文杉の樹齢ぐらいでしか聞いたことがありません。

みなさん、帰ってきてください。

静かになどしなくていいから。

校長の話など聞かなくてもいいから。

お願いだから、帰ってきてください。

そして騒いでください。

みなさんの楽しそうな笑顔が、もう一度見たいのです。

それが私の、私の唯一の願いです。

 

校長の私からのお話は以上です。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次は、教頭先生からの挨拶です。

 

 

おしまい

 

 

 

桜の花を巻き上げる暖かい風が、春の訪れを告げる。桜の花の匂いは出会いの匂いであると同時に、別れの匂いだ。

この匂いを嗅ぐと様々な出会いと別れの思い出が心の中を駆け巡り、少し切なくなる。

 

春は色んなシーンで花について考えさせられる。桜もそうだが、春は花を贈ったり、贈られたりすることが多いのもその理由のひとつだ。

 

花を贈るという行為に意味を見出せたのはここ数年の話だ。大学生になって先輩や両親などに花を贈ったり、逆に後輩から花を貰ったり、そういうことをしているうちに、花について考えることが増えたのだ。

 

それまでの僕は、花に対して無関心というか、花を贈るという行為に特別な思い入れはなかった。確かに咲いている花を見て「綺麗だな」と思うことはあったが、「この人に花を贈りたい」などというお洒落な欲望に駆り立てられることは一切なかった。

もしかしたら花を贈るという行為にどこかで恥ずかしさがあったのかもしれない。

自分自身に自信がないから、「花を贈る」なんて行為は自分がやっていいことではないというもはや意味不明なネガティブ発想が、僕を花から遠ざけていたのだ。

 

人は自分に自信を持ったり、自尊心が高まった時、自分でも思わぬ行動力を持つことがある。

「人は」というよりは「僕は」なのかな。

僕はそういう人間なのだ。

 

やりたいことを見つけ、自分を認め、自分自身と向き合えるようになった時、気付いたら僕は花屋にいた。

 

あの人に花を贈ろう。

 

あの人を具体的にはしないが、まあ好きな人だ。特別な日ではなかったと思う。

特別でもなんでもない日にプレゼントを贈る、なんてことは顔面偏差値68の男のみに許された行為だと思う。ましてやそのプレゼントが花となると、僕には到底できない。

 

でもその時の僕はよくわからない自信を持っていて、「生きてて楽しい!」といういわゆる人生ハイになっていたので、花屋に入ることが出来たのだ。

人生ハイになった僕は強い。もう誰にも止められない。暴走機関車だ。僕は暴走機関車になった。いや暴走ではないけど、それまでの慎重な僕からすれば、感覚的には猛スピードで自分が進み出した気がした。

 

一両編成の暴走機関車(僕)はその人のことを思いながら、その人のイメージに近い花束を買った。思わぬ楽しさがあった。その人を思い、花を選ぶ、なんて素敵なことなんだ!そんな風に思った。

 

それ以来、花を贈るのも貰うのもとても好きになった。色合いの美しさや、その花の香りだけではなく、人の想いをまとった素敵なものなんだなと僕は考えるようになった。

 

花は枯れる。

僕がどれだけ思いを込めた花もいつかは枯れる。どんなに丁寧に世話をしても絶対に枯れてしまうのだ。

でも「花は枯れるから美しい」という言葉があるように、枯れない花は少しつまらないようにも感じる。

命に限りがあるからこそ、その美しさは生まれるのかもしれない。

花は枯れてしまうのだが、不思議と、「花を贈った」記憶や、「花を貰った」という記憶はしっかりと残っている。

花は枯れてからもしっかりと心に残り続けるものなのかもしれない。

 

形式的な贈り物としてではなく、心を繋いでくれるもの、花。

これからも贈りたいし、贈られたい。

相手のことを思いながら花を選ぶ幸せ、あれは他にはあまりない感覚だ。

 

あなたも誰かに

花を贈ってみませんか?

 

 

おしまい

 

お料理

みなさんはお料理しますか?

 

僕は四年前、上京してから少しずつ料理をするようになった。

幸いなことに僕の舌は肥えていない。

「美味しい」と「すごく美味しい」しか感じない僕の舌は実に哀れで、実に優秀だ。

というのも、貧乏学生にとっては馬鹿舌は非常に大きなアドバンテージであり、どんな手抜き料理でも美味しい判定が出るので実に安上がりなのだ。

はじめの頃は本当に、生きていくために必要な栄養素に味付けをしているだけだった。

実にシンプルで、基本的にはもやしや豆腐が並ぶ白を基調とした食卓であった。もやしとお豆腐に関していえば、もはや殿堂入り。やつらには本当に世話になった。

 

お魚を食べたくなったらスーパーでブリを買って照り焼きにしてみたり、ダシをちゃんと取ってお味噌汁を作るようになったのもここ2年ぐらいの話で、全然料理が趣味とか特技とか、そんなレベルではない。

 

ただ言っておきたいのが、僕は料理で失敗したことはない。

確かに今でも具材を切る時に「猫の手!」を意識しているが、カレーの野菜が賢者の石ぐらい硬かったことも、お味噌汁が海みたいに辛かったこともない。

というのも僕は味見をめちゃめちゃするのだ。

味見でおなかいっぱいになるぐらい味見をする。味見のために料理してるの?ってくらい味見をする。娘が出来たら「あじみ」って名付けていいぐらい味見をする。

 

臆病なのだ。

 

大胆な味付けはこわい。

 

僕は味噌も醤油も塩も砂糖も、一撃で料理を殺せるポテンシャルを持っていると思う。

もちろん適量を守ればやつらは料理を引き立てるし、なんなら主役になる。

だから味付けは繊細にするし、何度も味見をする。

臆病な人はきっと料理で失敗したことはないのだろう。

 

 

僕は臆病だ。

 

こういうことが起きるかもしれない、こうなったらどうしよう。そんなことを考えながらなかなか行動に移せない。そんな人間だ。

できれば大胆でありたいし、ポジティブでありたいと常に思っている。

でもまあ料理する時くらい、臆病でもいいのかなあなんて、そんなこと考えながら、今もポトフの味見をしている。

 

おしまい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

突然の別れ

アイツはどこだ。

アイツってドイツやねん。読者のそんな声が聞こえる。

アイツとはイヤホンのイヤーピースのことだ。

耳を密閉し、ノイズをシャットアウトするあのゴムの部分のことだ。

アイツは優秀だ。

街ゆく人の声、街の巨大モニターから流れる知らないアーティストの歌声、電車の鳴き声(ガタンゴトン)、色んなものをシャットアウトしてスマホから再生される音楽に集中させてくれるアイツは本当に優秀な奴だ。

アイツが居ない。

正確に言えば右耳のアイツだ。

左耳のイヤホンにはしっかりイヤーピースは付いており、どこか、居なくなった相方の行方を心配そうに案じているようにも見える。

いや困る。突然のことだ。

右耳から入るいらない情報をシャットアウトしていてくれていたのは、紛れもなくアイツであり、アイツが居なくなった今、僕の右耳は言わば無敵の城壁に空いた唯一の突破口なのだ。

突然訪れたこの状況に僕と、僕の左耳イヤホンは困惑している。

僕とアイツとの出会いは二年前だ。

吉祥寺のヨドバシカメラのイヤホンコーナーにひっそりとたたずんでいたアイツは僕が手に取ると嬉しそうな顔をした。(ように感じた)

イヤホンの交換のタイミングの相場が分からないからこの二年という期間が長いのか短いのかは分からないが、ずっと大切にしてきたつもりだ。

その相棒が今、僕の元を去っていってしまった。

どうしよう。

 

信頼関係が出来、満を持して鎖を外し、放し飼いにしてみた愛犬に逃げられた気分だ。

何故逃げられた。

信頼関係とは、ここではイヤーピースと耳の穴の大きさに当てはめられる。

抜群だった。

大きすぎず、小さすぎず、僕の為に作られたのかというくらいのフィット感。抜群だった。

 

ただ、アイツが逃げ出す兆候が全くなかった訳ではない。

数週間前のこと。家に帰り、イヤホンを外すとアイツはポロッと床に落ちた。逃げようとしたのだ。

未遂の時点で僕に見つかったので、少し気まずそうな目をしたアイツを僕は優しく叱り、イヤホンにグッと押し込んだ。もう逃げないように。

考えてみればアイツも辛い思いをしてきたのかもしれない。早朝のランニング、深夜のコンビニにも嫌な顔一つせず付き合ってくれた。

アイツもきっと可愛い女の子のお耳の恋人になりたかったのだろう。そう考えると僕はなんだか申し訳ない気持ちになった。

と同時に「もうアイツのことは諦めろ」と神様に言われたような気がした。

 

 

 

 

 

再会は突然のことだった。

アイツのことはもう諦めてスペアの新しいイヤホンピースを買いに行こうと思い、カバンの中から財布を取ろうとした時。

 

ぽっ、、、ぽろんっっ、、、照

 

アイツだ!!!!

 

2つ折りの財布のあいだからバツが悪そうに姿を現したのは、、アイツだ!

照れてる!照れてる!怒るべきところなのにすごく可愛いと思ってしまった!可愛すぎる!!

 

何やってたんだ!!もう!!バカバカ!!

ごめんな、、ほんとにごめんな、、、、

 

声に出して言ってはいないがそんな気持ちを込めてティッシュで優しく拭いてやった。

 

「アイツ」は「コイツ」に戻った。

近くにいるから。帰ってきたから。

 

これからはもっと優しくしよう。

もう逃げられないように。

君が船なら、僕はそれを迎え入れる港になろう。

君が辛い時、僕は寄り添っていよう。一緒にいることは当たり前ではない。

月並みな言葉ではあるが、失ってから気付く大切さというやつだ。

ずっと一緒にいよう。

僕の右耳は、君しか守れないから。

 

 

おしまい