桜の花を巻き上げる暖かい風が、春の訪れを告げる。桜の花の匂いは出会いの匂いであると同時に、別れの匂いだ。

この匂いを嗅ぐと様々な出会いと別れの思い出が心の中を駆け巡り、少し切なくなる。

 

春は色んなシーンで花について考えさせられる。桜もそうだが、春は花を贈ったり、贈られたりすることが多いのもその理由のひとつだ。

 

花を贈るという行為に意味を見出せたのはここ数年の話だ。大学生になって先輩や両親などに花を贈ったり、逆に後輩から花を貰ったり、そういうことをしているうちに、花について考えることが増えたのだ。

 

それまでの僕は、花に対して無関心というか、花を贈るという行為に特別な思い入れはなかった。確かに咲いている花を見て「綺麗だな」と思うことはあったが、「この人に花を贈りたい」などというお洒落な欲望に駆り立てられることは一切なかった。

もしかしたら花を贈るという行為にどこかで恥ずかしさがあったのかもしれない。

自分自身に自信がないから、「花を贈る」なんて行為は自分がやっていいことではないというもはや意味不明なネガティブ発想が、僕を花から遠ざけていたのだ。

 

人は自分に自信を持ったり、自尊心が高まった時、自分でも思わぬ行動力を持つことがある。

「人は」というよりは「僕は」なのかな。

僕はそういう人間なのだ。

 

やりたいことを見つけ、自分を認め、自分自身と向き合えるようになった時、気付いたら僕は花屋にいた。

 

あの人に花を贈ろう。

 

あの人を具体的にはしないが、まあ好きな人だ。特別な日ではなかったと思う。

特別でもなんでもない日にプレゼントを贈る、なんてことは顔面偏差値68の男のみに許された行為だと思う。ましてやそのプレゼントが花となると、僕には到底できない。

 

でもその時の僕はよくわからない自信を持っていて、「生きてて楽しい!」といういわゆる人生ハイになっていたので、花屋に入ることが出来たのだ。

人生ハイになった僕は強い。もう誰にも止められない。暴走機関車だ。僕は暴走機関車になった。いや暴走ではないけど、それまでの慎重な僕からすれば、感覚的には猛スピードで自分が進み出した気がした。

 

一両編成の暴走機関車(僕)はその人のことを思いながら、その人のイメージに近い花束を買った。思わぬ楽しさがあった。その人を思い、花を選ぶ、なんて素敵なことなんだ!そんな風に思った。

 

それ以来、花を贈るのも貰うのもとても好きになった。色合いの美しさや、その花の香りだけではなく、人の想いをまとった素敵なものなんだなと僕は考えるようになった。

 

花は枯れる。

僕がどれだけ思いを込めた花もいつかは枯れる。どんなに丁寧に世話をしても絶対に枯れてしまうのだ。

でも「花は枯れるから美しい」という言葉があるように、枯れない花は少しつまらないようにも感じる。

命に限りがあるからこそ、その美しさは生まれるのかもしれない。

花は枯れてしまうのだが、不思議と、「花を贈った」記憶や、「花を貰った」という記憶はしっかりと残っている。

花は枯れてからもしっかりと心に残り続けるものなのかもしれない。

 

形式的な贈り物としてではなく、心を繋いでくれるもの、花。

これからも贈りたいし、贈られたい。

相手のことを思いながら花を選ぶ幸せ、あれは他にはあまりない感覚だ。

 

あなたも誰かに

花を贈ってみませんか?

 

 

おしまい