僕を支配しているもの
生きていく上で自分の行動を左右しているものは、意外と一つの大きな観念であったりする。
観念、それはテーマとでも言おうか、それに基づいて自分は行動をしているような気がする。
己の欲せざる所、人に施すことなかれ
これは孔子の有名な言葉である。
自分のして欲しくないことは、人にするべきではない。
僕はこの言葉の通り、自分のして欲しくないことは人には決してしないようにしている。
人の気持ち、特に負の感情には人一倍敏感に生きてきたという自覚がある。
でもまあ簡単に言えば「嫌われたくない」という誰にでもあるような考えからかもしれない。
でもそれは、僕の人生の大部分を支配している考えであり、この言葉の通り、生きてきたつもりだ。
「支配されている」と言うと悪いイメージがあるかもしれないが、これは必ずしも僕の人生を制限したり、しがらみになっている訳では無い。
この生き方をする上で大切になってくるのが、「相手の気持ちを考える」という行為である。
僕は人の気持ちに敏感で、その人が今何を考えているのか、そして何を求めているのか、そんなことばかり考えている。
自分がされて嫌なことを人にしない。
これは案外簡単なことである。
基本的に万人が不快に感じることを避ければ、その人を嫌な気持ちにさせることはまずない。
適度な距離を取り、適切なコミュニケーションをとっておけば、マイナスのイメージからはいくらでも逃げられるのだ。
問題はここからだ。
されて嫌なことはわかりやすい。
難しいのは「されて嬉しい」こと。
自分がされて嬉しいことが、人にとってもそうであるか、これを考える時に僕の頭によく浮かぶひとつの言葉がある。
「余計なお世話」
この言葉が本当に鬱陶しい。
自分はされて嬉しいけど、この人にとってはどうなのか?果たしてその人にとってもやるべき事なのか。そんなことをずっと考えてしまう。
もしかして僕がこの人にやろうとしているのは余計なお世話なのではないか、そんな一抹の不安が、施しに待ったをかけるのだ。
僕にとっての当たり前が、他人にとっての当たり前ではない。
人はみんな違う人間であり、考え方も十人十色である。
誰かと意見が違った時によく耳にする言葉で、
「普通に考えればわかるじゃん」というものがあるが、僕は決してこれを言わないようにしている。
自分にとっての普通が誰にでも当てはまるものではないことを知っているから。
そしてその当たり前を押し付けることが、その人にとってどれだけ重いものとなるかを考えているからである。
それは家族であっても同じだ。
長く連れ添った家族であると、「当たり前」が共有されている点は多々ある。
それが家族の中での常識であり、行動のパターンとなる。
もちろん悪いことではない。
しかし家族も言ってしまえば別の人間。
価値観の違いだってもちろんある。
だから、僕は家族に対しても自分の意見を言いたいし、相手の常識と自分の常識をすり合わせる過程を大切にしているつもりだ。
自分の常識を世界の常識だと思わないこと。これを大切にするが故に、僕は人に「されて嬉しいこと」を施すことに戸惑っているのかもしれない。
やらない善よりやる偽善
そんな言葉もあるが、やはり僕は善を施したい。
難しいことだ。
何より大切なことは相手の気持ちを考えること。そして施す善に自己満足をしないことかもしれない。
これからも人の気持ちには、人一倍敏感でありたいし、自分の当たり前を押し付けるような人間にはなりたくない。
そんなの言わなくても当然のことだけど、簡単に出来るのならこんな文章にはしていない。
よく考え、結果的には幸せでありたい。
自分も、周りの人も。
色んな人の心からの笑顔を、僕は見てみたいのだ。
おわり