ありがとう
1月4日、午前5時5分、祖母が旅立った。
訃報を受け、寝ぼけ眼をこすりながら、病院へと向かう。まだ外は暗く、何もなければ寝ていた時間。色んなことを思った。
僕が生まれた時、祖父はもう居なくて、それでも祖母は僕のことをたくさんたくさん可愛がってくれた。
ばあば。
物心ついた時からずっとそう呼んでいた。
ばあばとの思い出は、もちろんずっとずっと心の中に生き続けるけれども、それでもお葬式が終わったこのタイミングで、ここに記しておこうと思う。
ばあばにとって僕は初孫で、本当にたくさんの愛情を注いでくれた。
両親が共働きで、母の仕事が遅くなる時はばあばが保育園まで迎えに来てくれたし、その後家に帰ったら、ばあばが美味しいご飯を作ってくれた。
保育園で使う布団カバーやカバンを手作りしてくれたのもばあばだ。
年齢を重ねるにつれて、ばあばと会う機会は減っていった。
今思えば、ずっと一人暮らしをしていたばあばには、寂しい思いもさせたかもしれないね。
それでも毎年、お正月に会う時は、いつも以上に張り切ってご馳走を作ってくれたばあば。
もうお腹いっぱいなのに、次々と料理は運ばれてきて、「もう食べれないよ」なんてみんなで笑いながら、それでも美味しいから少しずつ食べちゃって。
ばあばとの思い出の中には、いつも手作りの美味しいご飯があるね。これは本当に幸せなことです。
偶然にもばあばと同じ大学の、同じ学部、同じ学科に入学した僕。
ばあばはそのことをとても喜んでくれたね。
身体を壊して、中々上手くいかない大学生活だけど、ばあばはいつも僕の心配をしてくれました。
東京にも1人で来てくれた2018年の5月。
西荻窪の商店街を手を繋いで歩いたね。
ばあばは杖をついてゆっくりゆっくり歩くから、たくさんの人に追い抜かされたね。
駅まで着いたら「歩くの遅くてごめんね。」なんて言うから僕は涙をこらえながら「会いに来てくれてありがとう」と伝えたね。
自分の身体より、僕の身体のことを心配してくれて、こんなに幸せなことはないです。
そんなばあばも、少しずつ弱っていって、正直言えば弱っていくばあばを見るのは結構辛かった。大好きな人だから、たくさん会いたいけれど、大好きだからこそ、弱っていく姿を見るのは結構しんどくて。
最初に病院にお見舞いに行った時、意識がないばあばを見て泣いてしまった。
あの時はごめんね。
人はみんな弱っていくのに、ばあばだけはずっと元気で居てくれるような気がしてたから、少し動揺してしまったんです。
それでも10月に入院して亡くなるまでの3ヶ月、何度も危ない状況になりながらも、その度に驚異的な復活を見せてくれたね。
11月に転院する時、僕の名前を何度も呼んでくれたね。振り絞るような細い声だったけれど、嬉しくて嬉しくてまた泣いたよ。
それからはお見舞いに行ってもほとんど意識はなくて、手を握ってあげることぐらいしか出来なかったけど、それでもばあばの手は毎日あったかくて、懸命に生きているんだなと強く感じた。
1月1日、おせち料理をお弁当箱に詰めて、病院に行った。
いつも通り、眠っているような状態だけど、もちろん食べさせてあげることはできないけれど、それでもばあばが大好きなおせち料理を見るだけでも、匂いを嗅ぐだけでも、させてあげられてよかった。
お別れは突然来るもので。
1月4日、朝6時前、ばあばが亡くなったと聞く。
覚悟はしていたので、その時は割と冷静だった。
着替えの際に最初に手に取った黄色の靴下は何だか非常識な気がして、黒いものに変えた。
いつもお見舞いに来る病院に着いたが、向かう先はいつもの病室とは違う霊安室だった。
ばあばは安らかな顔で眠っていた。
冷たい手で触れるとびっくりしてしまうかなと、お見舞いの時はいつも自分の手をあたためてから手を握っていたけれど、その必要はないのかと思うと、急に寂しくなって、切なくなって。
苦しかったね。
よく頑張ったね。
ありがとう。
頑張るね。
ゆっくり休んでね。
天国でじいじやお友達と楽しく過ごしてね。
美味しいご飯をお腹いっぱい食べてね。
伝えたい思いは次々と出てきて、たくさん話しかけたけれど、ちゃんと届くといいな。
これを書いていても、まだ涙は止まらないけれど、ばあばにもらったたくさんの愛情を僕は忘れず、生きていきたいと思う。
これからもずっと、心の中のばあばが笑顔でいられるように、前向きに過ごしていければいいな。
ばあばらしく、そっと優しく見守っててね。
たくさんたくさん、ありがとうね。
安らかに、眠ってね。
あんまり泣いているとばあばに怒られそうなので、また笑顔で頑張っていこうと強く決意をしました。
2020年もよろしくお願い致します☺️
おしまい